「主のもとにある平和」佐藤洋晴師
イザヤ書11章1節~9節
平和の定義は、戦争がない、みんなが一緒にごはんを食べられる、など様々です。同様に「平和ではない」と言われる時の原因・理由も様々です。しかし、「真の神を神としない」という共通点があると言えるでしょう。平和を考え、実現するために重要な事がそこにあるのではないでしょうか。真の神が、主イエスの十字架の出来事を通して、自ら主にある平和を与えてくださることを知り、祈りながら、その完成のための道具として歩みたいものです。
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イザヤ書11章1節~9節
平和の定義は、戦争がない、みんなが一緒にごはんを食べられる、など様々です。同様に「平和ではない」と言われる時の原因・理由も様々です。しかし、「真の神を神としない」という共通点があると言えるでしょう。平和を考え、実現するために重要な事がそこにあるのではないでしょうか。真の神が、主イエスの十字架の出来事を通して、自ら主にある平和を与えてくださることを知り、祈りながら、その完成のための道具として歩みたいものです。
ローマの信徒への手紙 12 章 17 節~21 節
現在のような平和とは程遠い状況の中で、私たちキリスト者はどうすればよいのでしょうか。個人としてできることには限りがありますが、武力によっては憎悪の連鎖が続くばかりであることを訴え、そしてこの連鎖を断ち切るために来られご自身を十字架に差し出された主イエス・キリストの平和の福音に一人ひとりがしっかりと立つことだと思います。
1デナリオンは正統な一日の労働賃金です。朝イチから働いた者も、夕方五時から1時間働いた者も、同じ賃金を頂けるのが天の国であると言います。その理由として、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と、ぶどう園の主人は言います。神様は、全ての人に同じ恵み、イエス・キリストのいのちを用意されました。それは当然の報酬ではなく、神様の偉大な恵みです。その恵みの前に、先も後も関係なく、ただ感謝するのです。
イエス様が言われるのは、モーセが離縁を許す掟とは、人々の心が頑固で、夫婦間のトラブルや、様々な問題で離婚せざるを得ない場合に対する譲歩であって、モーセは仕方なく逃げ道を持たせているだけで、離婚を肯定する掟ではないと教えられます。結婚を司る神をどこかへやってしまって、離婚を正当化するために、モーセの掟を引き合いに出す。これでは神から与えられた律法を、人が畏れて従うのではなく、人間が自分の都合で利用している。本末転倒になっています。神をも利用し、畏れない人間のエゴを、イエス様は厳しく指摘されました。律法の精神は、神の掟を人間が守るのです。
罪の問題はバプテスマを受ける前も信者になってからも重要です。キリスト者は、自分の罪が、イエス様の十字架の苦しみの中にあることを覚えます。イエス様の手と足から血が流れ、茨の冠を被せられ、人々の嘲りと罵倒の中で傷つかなければならないほど、本当はわたしが、それだけの罪を持つ人間であることを自覚するのです。わたしの心にある闇は、些細なことでも、正当化できることでも決してなくて、イエス様の赦しがなければ、聖なる神様の前に立つことはできない罪人です。神の赦しは、許せない相手にも等しく注がれています。赦された者は、自分が赦された者として赦すのです。
イエス様は、律法に対して、安息日に病人を癒されたり、麦の穂をつむことを許されたり、律法に対して自由にふるまわれました。それは、ファリサイ派や律法学者などの厳格は者たちからは、イエス様は律法に従わない者として映りました。ところが、イエス様は一方で大変厳しいことを仰います。それは五体満足でなくても、必要なものが全てそろって神を見失うよりは、大切なものを欠いてでも、神に近づく方がよいと仰るのです。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタ5:20)(大矢)
イエス様の時代、神殿はユダヤ教の一つの象徴でした。ヘロデの再建したエルサレム神殿は壮麗で、ソロモン神殿の二倍の大きさがありました。人々はこぞって礼拝し、献げ物を持ってきました。ところが神殿は、紀元70年、跡形もなくローマによって破壊されてしまいます。イエス様は、神殿税を魚の口からお納めになりましたが、それは人々につまずきを与えないためで、本当は払う必要がない考えの発言をしています。使徒パウロは、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり」(一コリ6:19)キリストを信じる者の体が聖なる神殿であると告げます。(大矢)
2008年8月31日
神様を信じるということは容易なことではありません。それは時に苦しみであり、悲しみであるかもしれません。しかし、苦しみながらも信じ続けるところに、旧約の神から、イエス・キリストの復活の神として伝えられた聖書の歴史があります。「福音」とは喜びの訪れであることは間違いありません。ですが、手放しで喜ぶことはできない、生涯を通して神様に従う「服従」が伴います。服従を選び取る勇気と真剣さが大切です。しかし、その信仰すら神様が与えて、支えて下さいます。
マルコの教会は第一次ユダヤ戦争後、ユダヤ人から、そして非ユダヤ人か
らも狙われるという、大変厳しい状況に置かれます。そしてマルコは大勢
の難民が疲弊しているのを目の当たりにしています。これがマルコの「現
代の現場」であり、12 人の選びはその現場に対する福音信仰による応答
です。 私たちの教会は私たちの「現代の現場」にどのように応えていっ
たら良いのでしょうか?
1945 年戦いがおわって20 年後、カトリックは新しい方針を発表した。他
の宗教に対する考えで、諸宗教の中に見出される真実で尊いものを何も退
けない、尊敬の念をもって考察する。ここでプロテスタントと共同して、
「新共同訳」ができ、「イエズス」を「イエス」にする大きな変革をとげた。
二つのものを一つにし· · · とはまさにこのことをさすのです。