マタイによる福音書20章1~16節
1デナリオンは正統な一日の労働賃金です。朝イチから働いた者も、夕方五時から1時間働いた者も、同じ賃金を頂けるのが天の国であると言います。その理由として、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と、ぶどう園の主人は言います。神様は、全ての人に同じ恵み、イエス・キリストのいのちを用意されました。それは当然の報酬ではなく、神様の偉大な恵みです。その恵みの前に、先も後も関係なく、ただ感謝するのです。
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1デナリオンは正統な一日の労働賃金です。朝イチから働いた者も、夕方五時から1時間働いた者も、同じ賃金を頂けるのが天の国であると言います。その理由として、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と、ぶどう園の主人は言います。神様は、全ての人に同じ恵み、イエス・キリストのいのちを用意されました。それは当然の報酬ではなく、神様の偉大な恵みです。その恵みの前に、先も後も関係なく、ただ感謝するのです。
11月9日に、小野慈美牧師(潮来バプテスト教会牧師、潮来幼稚園園長、日本バプテスト神学校助教授)をお招きし、キリスト者の子育てについてなど、お話を伺います。少子高齢社会にあって、子どものいのち、全ての人のいのちが大切にされなければならないはずが、悲しいニュースを数多く目の当たりにします。「神無き教育は知恵ある悪魔をつくる」という言葉がありますが、わたしたちは経済、能力、価値、競争、こうした言葉はよく聞きますが、聖なるもの、目に見えない存在を忘れて、見えることにばかり気を取られていることはないでしょうか。ひととき、キリスト教における教育の視点について学んでみたいと思います。どなたでもおいで下さい。お待ちしています。(大矢)
イエス様が言われるのは、モーセが離縁を許す掟とは、人々の心が頑固で、夫婦間のトラブルや、様々な問題で離婚せざるを得ない場合に対する譲歩であって、モーセは仕方なく逃げ道を持たせているだけで、離婚を肯定する掟ではないと教えられます。結婚を司る神をどこかへやってしまって、離婚を正当化するために、モーセの掟を引き合いに出す。これでは神から与えられた律法を、人が畏れて従うのではなく、人間が自分の都合で利用している。本末転倒になっています。神をも利用し、畏れない人間のエゴを、イエス様は厳しく指摘されました。律法の精神は、神の掟を人間が守るのです。
罪の問題はバプテスマを受ける前も信者になってからも重要です。キリスト者は、自分の罪が、イエス様の十字架の苦しみの中にあることを覚えます。イエス様の手と足から血が流れ、茨の冠を被せられ、人々の嘲りと罵倒の中で傷つかなければならないほど、本当はわたしが、それだけの罪を持つ人間であることを自覚するのです。わたしの心にある闇は、些細なことでも、正当化できることでも決してなくて、イエス様の赦しがなければ、聖なる神様の前に立つことはできない罪人です。神の赦しは、許せない相手にも等しく注がれています。赦された者は、自分が赦された者として赦すのです。