教会の歴史

Nathan Brown

教会の歴史 - History of Our Church

(1) 日本バプテスト横浜教会は1873(明治6)年3月2日に横浜山手203番の地に、米国バプテスト宣教師同盟(American Baptist Missionary Union=ABMU)宣教師ネーサン・ブラウン(Nathan Brown)、ジョナサン・ゴーブル(Jonathan Gobel)両夫妻によって設立された、日本における二番目のプロテスタント教会である。

(2) 1873年3月2日(日)は、1833(寛永(かんえい))10年よりの鎖国令(キリシタン禁制令=キリスト教禁止令)が、明治政府によって撤廃(てっぱい)された1873年2月24日(月)の次の最初の聖日である。

(3) 教会メンバーは四人の宣教師夫妻だけで、日本人信徒はいなかった。それは、彼らが1873年2月7日に日本に着いたばかりだったからである。そして、教会を設立した横浜山手203番館は、二組の宣教師夫妻の仮住まいの家であった。ブラウンたちは、日本人信徒がいなくとも、仮住まいの家であろうとも、一日も早く「神の家」である教会を日本に建てることが第一と、考えたからである。

Jonathan Goble

(4) 彼らには横浜山手75番ABの区画に、ゴーブルが1869~70年に購入していた二軒の洋館があった。しかし、他人に貸していたため入居出来たのは、教会設立後間もなくの3月10日頃であった。山手75番はその後の伝道活動の本拠地となり、日本人の教会堂も建てられたのである。この理由から、「日本バプテスト発祥の地」という記念碑は、現在この地に立っている。

(5) 設立者の一人のジョナサン・ゴーブルは、日本が開国した1859年の翌60年4月1日に米国バプテスト自由伝道協会(American Baptist Free Mission Society = ABFM)宣教師として来日し、幕末期の禁教時代にも勇敢に伝道に励み、1871年明治4)年に日本国内での最初の聖書『摩太(またい)福音書』を翻訳刊行した。

1872年にABFMがABMUに合併されたため、1873年に改めてABMUよりN・ブラウンと日本に派遣されることになった。米国バプテストの日本伝道は、彼の開拓によって道をつけられたのである。

とりわけ聖書翻訳は、優れた語学者であり既にアッサム語聖書を訳しているブラウンが、彼の事業を完成させるために任命され、来日したのであった。

Church register

(6) ブラウン(1807-86)が来日したのは65才の時である。彼はアッサムで23年働いた後、1855年に帰国しABFMに所属を変えて、機関紙「アメリカン・バプテスト(American Baptist)」の編集主任になり、奴隷解放のために激烈な論陣を張った。

南北戦争最中の1863年1月1日の奴隷解放宣言公布に際して、その前日バプテスト派の三人の代表の一人としてリンカーンに会い、その公布の実施を促すとともに宣言の中に「奴隷解放は正義の行為(emancipation is an act of justice)」の文言を入れさせた。

彼は63年に「米国言語学会(American Philological Society)」を作り会長になった。66年全世界語をローマ字表記にするために、40文字からなる「コズミック・アルファベット(KOZMIK  ALFABET=cosmic alphabet)」を考案した。それは一音一字、一字一音の原則によって表記と発音を一致させるものであった。

71 年病気がちのエリザ・ホイットニー夫人が亡くなったので、73年彼は再び宣教師となってゴーブルとともに来日した。主任としてであるが聖書翻訳がその任務であった。彼はゴーブルの訳業を引き継ぎ、米国バプテストの聖書翻訳団体「アメリカ・バイブル・ユニオン(American Bib1e Union = ABU)」の①精査されたギリシア語原典を用いた②平易な現代語による翻訳、という方針によって、直ちに翻訳に着手した。

それは他派の英米宣教師たちが「欽定訳(Authorized Version = AV)」に倣って12世紀の小文字写本を原典としたのに対し、当時発見、公開されたシナイ本、ヴァチカン本などの4世紀の大文字写本に近づける翻訳であった。

また、ヘボンたちの「委員会訳」が漢訳聖書を参照した漢文調の文章なのに対して、ブラウン訳は庶民向けの平俗な言葉を用い、平仮名分かち書きにし行間にローマ字の注を付けた。それは、将来日本語をローマ字表記にする意図が込められていた。

Gospel of Matthew

委員会訳の表題が「新約聖書」であるのに、ブラウン訳は「志無也久世無志与(しんやくせんしょ)」と万葉仮名である。これは表意文字の漢字を表音文字にした仮名によって書かれた聖書であることを、示そうとしたからである。

この聖書によって日本はキリスト教開教の初めに、知識階層、庶民階層のそれぞれに神のみ言葉が与えられる幸運を持ったのである。ブラウンは息子のピアス・ブラウンを来日させて「横浜バイブル・プレス」を作り、聖書の他に讃美歌、教書、日曜学校教科書などを多数出版した。そして、1886年1月1日に79才で亡くなるまで、聖書の改訳と讃美歌の編纂の手を休めなかった。

日本バプテスト横浜教会員川島第二郎